hope のすべての投稿

レオナルド・ダ・ヴィンチ:偉人たちの上に聳え立つ万能の天才 

レオナルド・ダ・ヴィンチ ルネサンス期の偉人たちの上に聳え立つ万能の天才 

 レオナルド・ダ・ヴィンチは、西洋絵画史における最大の芸術家であり、独創的な科学者・技術者としてよく知られている。彼は私生児として生まれたが故に、記録によるといわゆる正当な教育を受けていない。この正当な教育を受けていないことと関係があると指摘する見方もあるが、彼は左利きで、多くの鏡面文字で書かれた書面を残している。鏡面文字は鏡に映った文字であり、一見しても何が書かれているのか、容易に判読できない。彼にはその幅広い領域の作品に多くの不明な点があるが、彼がどうしてこの鏡面文字を書けるようになったのか、またなぜ鏡面文字の書面を残したのかなど、謎は多い。

 しかし、彼は絵画はもとより、彫刻、建築、土木はじめ、人体その他の科学技術に通じ、航空についても高い関心を持ち、驚くことに幅広い領域で後世に現実化する、地に足のついた、確実に実現可能な「未来予想図」を数多く書き残している。どうしてそのようなことができたのか。彼は、まさにイタリア・ルネサンス期に出現した、数多くの偉人たちの上に、さらに高くそびえ立つ、万能の天才だった。生没年は1452~1519年。

 レオナルド・ダ・ヴィンチはイタリア北部トスカーナ地方の首都フィレンツェから20km余のヴィンチという小さな村で私生児として生まれた。父はセル・ピエロ・ヴィンチ、母は村娘カテリーナ。家は代々、13世紀以来公証人を務め、暮らしは楽な方だった。父ピエロは当時は独立して、フィレンツェの裁判管区の公証人となっていた。25歳の彼はカテリーナと呼ぶ村娘と恋におち、レオナルドが生まれたのだ。しかし、ピエロはカテリーナと別れ、同じ身分の娘アルビエーラと結婚した。一方、カテリーナもヴィンチ村の農夫に嫁いだ。したがって、レオナルドは父ピエロとカテリーナの”かりそめの恋”によってこの世に生を受けたわけだ。

 父ピエロは才覚があり、その後、着々と地位を築き財産を増やしていったものの、なぜか芸術的才能はほとんどなかった。カテリーナは名もない村娘にすぎなかった。そんな両親から、どうして天才ダヴィンチが生まれたのか、全く謎としかいえない。余談だが、父ピエロは第一、第二の妻とは子をもうけなかったが、50歳の超えてから結婚した第三、第四の妻とは一ダースに近い子女をもうけるほどの絶倫男ぶりをみせた。これに対し、レオナルドは一生を独身で通し、およそ女性とは縁がなかった。

 ところで私生児と聞くと、何か暗い運命を連想しがちだ。が、レオナルドの場合、私生児故に日陰者になるとか、世間からつまはじきされるとかいった心配はなかった。ルネサンス時代のイタリアでは、そういう出生は別に恥辱とは考えられなかったのだ。多くの著名な家門はじめ芸術家にも、なんらかの不純な血筋が入り、あるいは私生児というケースも決して少なくなかった。当時のイタリアでは個人の価値と才能が、他の西欧諸国の法律や習慣よりも幅を利かしていた。ヴィンチ村で幼少期を過ごしたレオナルドは、1466年ごろ画才を認められ、花の都フィレンツェのヴェロッキョの工房で修業することになる。レオナルド14歳ぐらいのときのことだ。このとき仲介したのが父ピエロだった。レオナルドの画才を知った父が、かねがね懇意のヴェロッキョを訪ね作品を見せ、レオナルドの並々ならぬ才能を認めたヴェロッキョが受けいれたからだ。

 ヴェロッキョは優雅で洗練された技巧を示し、フィレンツェ派の頭目の一人で、彫刻家のほか画家、金細工師としても名を成し音楽や数学にも通じる万能人だった。したがって、彼の工房はさながら芸術家養成所の観を呈していた。ここでは顔料の科学的製法、油絵絵具の改良、衣服のひだの研究、青鋳銅造法などの新しい試みが行われ、明暗法や遠近法の研究も進んでいた。この工房には先輩格でボッティチェリ(1444~1510年)らも出入りしていた。フィレンツェ芸術文化の一端を担い、活気に満ちた工房に入ったことは、レオナルドの修業にどれほど寄与したことか、計り知れない。

 レオナルドはヴェロッキョの工房で徒弟としてあらゆる基礎的技能を修め、1472年に徒弟時代を終えて、フィレンツェ画商組合に加わった。しかし、独立は難しく、1478年までは引き続き工房にいて仕事を手伝った。この助手時代にレオナルドは早々と天稟(てんびん)を現した。例えば、1473年8月5日の日付け入りの「風景素描画」だ。故郷ヴィンチ村付近のアルノ渓谷を写生したものと思われるが、右手の断崖絶壁の物凄さ、流れ落ちる滝の勢い、滝つぼの奔流、左手の堡塁(ほうるい)を巡らされた町の佇まい、その間を蛇行する川、遥かに展望される平野の趣きなど、これらすべてがレオナルドの周到な自然観察を示しているのだ。中世の型にはまった風景画、人物の単なる添えものとしての風景ではなかった。

 師ヴェロッキョとの共作と伝えられる「キリスト洗礼図」にも、レオナルドならではの新鮮な手法がみられるのだ。例えば左端の天使の衣服のひだ。レオナルドはこの衣服のひだに特別の関心を払い、多くのデッサンを残している。また、豊かで美しい天使の髪だ。彼は美しい毛髪に異常なまでの愛着を持ち、毛髪美を表現するために工夫に工夫を重ねた。これは、写実的で15世紀の様式に従っているヴェロッキョの天使と比べると、その違いが際立つ。ヴェロッキョはこの絵を描いてからは、自分の本来の領域である彫刻に専心し、絵らしい絵は描いていない。彼は年少の弟子のレオナルドの天分にショックを受けたのだ。

 1482年、レオナルドはフィレンツェからミラノへ移る。30歳のときのことだ。ミラノ公国を治めるスフォルツァ家の当主・ルドヴィーコ・スフォルツァ宛てに、レオナルドは自分が軍事技術者で発明家であることをアピールする自己推薦状を書き、これを受け容れたルドヴィーコに17年間にわたり仕えた。画家・芸術家は当時、低くみられていたため、幅広い才能に恵まれたレオナルドはあえて画家を前面に出さなかったのだ。その後、次々と出される軍事技術上の発明研究命令に応えたレオナルドは、スフォルツァ家当主の信頼を得て、友人扱いを受けるようになった。

 1499年、ルイ12世率いるフランス軍の侵攻でミラノが陥落。やむなくレオナルドは1500年にマントヴァへ、さらにヴェネツィアに、そして暮れにフィレンツェに戻った。1502年8月からレオナルドは、ローマ教皇軍総指揮官チェーザレ・ボルジア(教皇アレクサンデル6世の庶子)の軍事顧問兼技術者として働いた。しかし、8カ月程度でフィレンツェに戻り、アルノ川の水路変更計画やヴェッキォ宮殿の壁画「アンギアリの戦い」(未完)などの仕事に従事した。

 1506年、スイスの傭兵がフランス軍を追い払うと、マクシミリアン・スフォルツァが治めるミラノに戻った。そこで、後に生涯の友人となり、後継者ともなったフランチェスコ・メルツィに出会った。1513~1516年ごろはミラノ、フィレンツェ、ローマをたびたび移動していたと思われる。当時、ローマにはラファエロやミケランジェロが活動していた。ただ、ラファエロはレオナルドの絵を模写し、影響を受けているが、ミケランジェロとの接触はほとんどなかったとみられる。

 1515年に即位したフランス王フランソワ1世は、同年ミラノを占領した。このときレオナルドはボローニャで行われたフランソワ1世とローマ教皇レオ10世の和平交渉の締結役に任命され、フランソワ1世に出会った。運命的な出会いだった。以後、レオナルドはよほどの信頼を得たのか、このフランソワ1世の庇護を受けることになる。1516年からは王の居城、アンボワーズ城に隣接する、フランソワ1世が幼少期を過ごしたクルーの館に招かれ、年金を受けて余生を過ごした。そして3年後の1519年、レオナルドはそのフランスのクルーの館で亡くなった。享年67歳。

 完成したものは極めて少ないが、レオナルドは絶え間なく仕事をした。しかも、前人未到のものばかりだ。芸術分野以外では建築・土木、科学技術などに通じていたが、まだほとんど触れていない人体・解剖学について少し記しておきたい。

 レオナルドが解剖学に興味を持ったのはヴェロッキョの工房にいたときからだが、第一ミラノ時代にかなりの研究が進み、多くのスケッチを残した。絵画を描く前提を通り越して、解剖学そのものが課題となったのだ。1489年には頭蓋骨についての研究を行い、90年代には循環器系の図や縦断面による男女性交図まで描いた。サンタ・マリア・ヌボア病院を利用して老人の死体を解剖し、老人の血管、動脈硬化、肝臓の硬化について克明なノートを書いた。

 第二ミラノ時代はフランス王の保護で生活が落ち着いたので、水力学と並んで解剖学の研究に打ち込んだ。また、ミラノの解剖学教授マルカントニオ・デルラ・トルレに会って教えを受けた。この期には骨と筋肉との運動、胸と胴の器官、心臓および血流、発生などの研究が中心課題となった。

 最後にレオナルドの二大名作について、少し記しておく。

<最後の晩餐>レオナルドがいつごろから描き始めたか、正確には分からない。絵のあるサンタ・マリア・デルレ・グラツィエ修道院はミラノ城の近くにあり、ルドヴィーコ・スフォルツァは1492年に修道院の食堂を改築するようにブラマンテに命じ、この食堂の後壁にロンバルディア派の凡庸な画家モントルファノ(1440~1504年)がキリスト磔刑図を描いた。これは1495年に完成された。そこで食堂の前壁にレオナルドが「最後の晩餐」を描くように命じられたのだ。したがって、制作の開始を1495年ごろと推定できる。

 「最後の晩餐」の主題は周知のとおり、『ヨハネ伝』第十三章第二十一節以下にみえる。イエスが弟子たちのうちの一人が、イエスを裏切ることを告げるくだりだ。この劇的な瞬間は、レオナルド以前にも多くの画家たちによって描かれた。しかし、レオナルドはそれらとは根本的に違った。

 レオナルドは二つの点で伝統から離れた。彼はユダを孤立から取り出し、それを他の人々の列の内に置き、次いでヨハネが主の胸に横たわるというモチーフから解放されている。そして、中央に他の何人とも似ない主宰的人物、キリストを配置し、十二人の使徒を左右にそれぞれ二つの三人のグループを形作った。まさにレオナルドの新機軸だった。中央のキリストはもはや死を覚悟してか、従容としている。これに反して、他の使徒たちはあるいは驚き、怒り、悲しみ、疑っている。実際、レオナルドほど人間心理の表れである、笑う、泣く、怒る、絶望するなどの表情をつぶさに観察した画家はいない。「最後の晩餐」には、この観察眼が見事に結実しているのではないか。

 ところで、西洋絵画史上屈指のこの名画くらい、数奇な運命にもてあそばれたものはない。絵が完成したとき、人々はどんなに感嘆したことだろう。修道院食堂の壁に描かれた横9m、高さ4mの壮大な晩餐図は、色彩といい、明暗といい、構図といい、すべてが画期的だった。だが、その画期的試み故に、修道院食堂の外部条件の故に、さらには後世の放置や破壊の故に、レオナルド畢生の傑作は無残にも損傷されていった。

 元々、修道院は湿地に建てられていたことに加え、壁が硝石を含む石からできていた。そのため、湿気が絵を侵し、画面を傷つけていったのだ。その結果、油絵の微妙な色調とかやわらかな味を台無しにした。その後も16世紀から18世紀にかけて数度にわたる戦火をくぐり、また無能な修正が行われるなど、この名画には全く不似合いな、悲惨な状況に遭遇し続けた。

<モナリザ>モナリザはレオナルドの代表作であるばかりでなく、世界中の人が知っている西洋絵画史上の最高傑作の一つであることはいうまでもない。それでいてなぜか、この絵には不明な点が少なくない。モナ・リザ(リザ夫人の意)は、リザ・ディ・アントニオ・マリア・ディ・ノルド・ジョルディーニという長い名の、ナポリの上流階級出の夫人だ。フィレンツェの富裕な市民フランチェスコ・デル・ジョコンダの三度目の妻となった。それ以外のことは一切分からない。

 レオナルドはチェザレ・ボルジアのもとから戻った1503年初めに、肖像画に着手した。当時24、25歳だったと思われる。マントヴァのゴンザガ侯妃で、当時世界第一等の女性といわれたイザベッラ・デスケの懇願にも応じなかった彼が、「モナリザ」の制作を引き受けたのは、何か特別な理由があったのか。レオナルドにとって夫人が理想の女性と映ったのか、その点も判然としない。ともかく彼は「アンギアリの戦い」制作の合い間にも、「モナリザ」に手を加え、ミラノに赴くまで絵筆を置かなかったし、フランスにも持参したくらいだ。黒いヴェールを被り、眉毛のない顔、横向きの姿勢など、この肖像画ではすべてが中央のモナリザの微笑に集中するといっていい。この微笑が何を表そうとしているのか。その解釈は古来、様々だ。

 いずれにせよ「モナリザ」がレオナルドの創作の頂点を成し、ゴシック初期以来300年にわたって西欧の芸術発展の核心に迫る作品だったことは誰もが認めるところだ。完成作ではなかったが、会心の作だった。この絵はフランスのフランソワ一世が直接レオナルドから買い上げ、以後フランスの所有となった。しかし、度々の洗滌や修理で亀裂が生じ、原作の繊細な描写を消してしまった点が惜しまれる。

(参考資料)西村貞二「レオナルド・ダ・ヴィンチ ルネサンスと万能の人」

クラウゼヴィッツ 世界の革命家に大きな影響を与えた『戦争論』を著す

クラウゼヴィッツ 世界の革命家に大きな影響を与えた『戦争論』を著す

 クラウゼヴィッツは、プロイセン軍隊の創設、軍制の確立に尽力し、対ナポレオン戦争の経験を元に、戦略・戦術に関する名著『戦争論』を著したことでよく知られている。その思想は世界の軍人や革命家たちにも大きな影響を与えたといわれる。生没年は1780~1831年。

 カール・フォン・クラウゼヴィッツはプロイセン王国のマクデブルクで生まれた。父はマクデブルクの王室収税官だった。1792年、12歳のときにポツダムのフェルディナント親王歩兵連隊に入隊し、1794年にラインラントにおけるマインツ攻城戦で初めて戦闘に参加した。少尉に任官した15歳からの6年間はノイルッピンで過ごす。このとき所属していた連隊の連隊長の考課表によると、有能かつ熱心、頭脳明晰で好奇心旺盛と評価されている。

 クラウゼヴィッツは1801年、ベルリンの士官学校に入り、そこでシャルンホルストの下で軍事学を学んだ。1803年、プロイセン軍アウグスト親王の副官に任命され、6年間にわたって副官としての業務を行いながらも、軍事学の文献だけでなく、外交・文化・歴史・文学についての文献を多読し、マキャベリやモンテスキュー、カントの影響を受けて、独自の思考様式を育んだ。そして、ナポレオン戦争に従軍して1806年に親王とともにフランス軍の捕虜となるまで、多くの戦史研究や戦略論、政治評論などを執筆している。

 1807年、ティルジット講和条約が締結された後、クラウゼヴィッツは捕虜交換により釈放され、その後、フランス軍占領下にあったベルリンに帰還した。1809年、クラウゼヴィッツは陸軍省に勤務し、皇太子の軍事教育も担当した。1812年、フランス軍に対抗するため、一時期ロシア軍に軍籍を置きながら、参謀としてフランス軍と戦った愛国的な軍人でもあった。ナポレオン戦争終結後にはベルリンの陸軍大学校の校長として勤務している。『戦争論』の原稿はこの頃に執筆されたものだ。

 クラウゼヴィッツは1830年に校長を辞任して、七月革命の余波を受けたポーランドでの暴動を鎮圧するために派遣されるが、1831年にコレラで病死した。

 『戦争論』の思想は大モルトケをはじめとする後世の軍人たちや、レーニンをはじめとする革命家たちにも大きな影響を与えた。日本も例外ではない。クラウゼヴィッツの思想は、1867年に始まった明治維新による日本の国家建設以来、軍事のあらゆる分野に様々な影響を与えている。しかし、日本の軍人は『戦争論』に最も明確に述べられている戦争の本質について学ぶことよりも、ドイツを手本として軍事行動を計画し、実行する方法を学ぶことに熱心だった。

 日本陸軍は、ドイツ第二帝政期の初期におけるドイツの軍事思想を通じて、クラウゼヴィッツの思想を主として間接的に学んだ。彼らは師団レベルの基礎的な戦術と応用戦術に関する教育を受けた。その教育の特色は、クラウゼヴィッツが重視した理論と実際の統一にあった。この教育の成果は非常に大きかったので、このような教育法は陸軍大学の誇るべき伝統として、第二次世界大戦までそのまま継承された。

(参考資料)広瀬隆「クラウゼヴィッツの暗号文」、寺山修司「さかさま世界史 怪物伝」

 

モーセ 古代イスラエルの民族指導者で、最も重要な預言者の一人

モーセ 古代イスラエルの民族指導者で、最も重要な預言者の一人

 一般にはモーゼと呼称されることが多いが、旧約聖書の『出エジプト記』などに現れる、紀元前13世紀ごろ活躍したとされる古代イスラエルの民族指導者モーセは、ここに取り上げる人物たちとかなりスケールは異なるが、紛れもなく大怪人といっていいのではないか。彼はユダヤ教、イスラム教、キリスト教など多くの宗教において、最も重要な預言者の一人とされる。

 『旧約聖書』の『出エジプト記』によると、モーセはイスラエル人のレビ族の父アムラムと母ヨケベドとの間に生まれ、兄アロンと姉ミリアムがいた。モーセが生まれた当時、イスラエル人が増えすぎることを懸念したファラオは、イスラエル人の男児を殺すよう命令した。こうして殺される運命にあったモーセは出生後、しばらく隠して育てられたが、やがて隠し切れなくなり、葦舟に乗せてナイル川に流された。そこへファラオの王女が通りかかり、彼を拾い、水から引き上げたので、マーシャー(引き上げる)から、「モーセ」と名付けられたという。

 成長したモーセは、同胞のイスラエル人がエジプト人に虐待されているのを見てエジプト人を殺害。ファラオの追討軍の手を逃れてミディアンの地(現在のアラビア半島)に住んだ。モーセはミディアンでツィポラという女性と結婚し、羊飼いとして暮らしていたが、ある日燃える柴の中から神(エホバ)に語り掛けられ、イスラエル人を約束の地(現在のパレスチナ周辺)へ導く使命を受ける。こうして彼の預言者としての活動が始まる。

 エジプトに戻ったモーセは兄アロンとともにファラオに会い、イスラエル人退去の許しを求めたが、ファラオは拒絶、なかなか許そうとしなかった。そのため「十」の災いがエジプトにくだり、ようやくイスラエル人たちはエジプトから出ることができた。それでもファラオは心変わりして軍勢を差し向けるが、葦の海で水が割れたため、イスラエル人たちは渡ることができたが、ファラオの軍勢は海に沈んだ。映画『十戒』でも最大のダイナミックなシーンとして、リアルに表現されていただけに、ご承知の人も多いはずだ。その後、モーセはシナイ山で神から石版2枚の十戒を受けた。

 『レビ記』『民数記』『申命記』によると、その後のモーセはイスラエル人を導いて荒野を通って土地の王たちとの戦いを経つつ、カナンの地へ至った。しかし、カナンを前に民が神とモーセに不平を言ったため、神はさらに40年の放浪をイスラエル人たちに課した。モーセもメリバの泉で神の命令に従わなかったことにより、カナンの地へ入ることを許されなかった。そして、40年の期間が満ちたとき、モーセは民に別れの言葉を残した。その後、モーセはビスガの山頂で約束の地カナンを目にしながら、世を去ったという。没年齢は120歳。

(参考資料)寺山修司「さかさま世界史 怪物伝」

 

皇帝ネロ 治世当初“名君”も、母・妻殺害の暴挙で暗転

皇帝ネロ 治世当初“名君”も、母・妻殺害の暴挙で暗転

 王制、帝政、そして日本の武家社会などを含め統治形態は異なっても、トップの後継争いは常に血みどろの争いが付き物だ。古代ローマ帝国の場合も全く例外ではない。強い母の導きと画策で帝位に就いた第5代皇帝ネロは、キリスト教徒を迫害し、後世“暴君”の代名詞とされたが、果たして、等身大の皇帝ネロの姿はどうだったのだろうか。

 皇帝ネロは小アグリッピナ(母)と、グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス(父)の息子として生まれた。母は初代皇帝アウグストゥスの孫、大アグリッピナとゲルマニクスの娘だった。ネロの生没年は37~68年。皇帝在位は54~68年。生まれたときの名前はルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス。

 40年、ネロが3歳のとき父グナエウスが死去。その翌年にカリグラが帝位に就くが、まもなくカリグラによって母が追放された。そのため、ネロは叔母に育てられた。しかし、その3年後カリグラが暗殺され、伯父のクラディウスが擁立され第4代ローマ皇帝になると、彼によって母はローマに戻ることを許された。この時点では初代皇帝の孫、ネロの母もようやくローマ市民に戻ったにすぎなかった。

 第4代皇帝クラディウスはメッサリナを妃として迎えており、すでに後継者ブリタンニクスがいた。ところが、メッサリナは48年に不義の咎で殺害され、幸運にも後妻としてネロの母がクラディウスと結婚、皇妃となったのだ。まさに人生の歯車がうまく回転し始めたわけだ。そして、その母の采配でブリタンニクスは徐々に疎外され、ネロの存在が際立つようになる。そこで、年少のブリタンニクスよりも後継者にふさわしいとみられるようになり、ネロをブリタンニクスよりも先に王位に就ける確約を得た。

  ここまできたら、あとは待っていればいいようなものだが、権力志向の強いネロの母は動きをみせる。54年、信じがたいことだが、その母が第4代皇帝クラディウスを暗殺してしまう。クラディウスが死ぬとネロが第5代皇帝に即位し、1年も経たないうちに、今度はネロがブリタンニクスを毒殺したのだ。

 ところで、暴君の代名詞のようにいわれる皇帝ネロだが、治世初期は予想外に、“名君”の評判もあったほど良かった。それは家庭教師で哲学者セネカと親衛隊長官セクトゥス・アフラニウス・ブッルスの補佐によるものだ。しかし、そのメッキは徐々に、そして確実に剥がれていく。ネロはまず59年に母を殺害する。これは公私にわたり強引に干渉してくる母が疎ましくなったためだった。また、62年には妻オクタヴィアを、姦通罪(冤罪)を理由に殺害してしまう。そして、人妻だったポッペア・サビナと強引に結婚するのだ。無茶苦茶としかいいようがない。

   62年に側近の一人、親衛隊長官ブッルスが急死。この頃からもう一人の側近セネカも遠ざけられて、ネロの統治は破綻していく。64年にローマで大火が発生するが、人々はネロが自分の宮殿を建てるために、街に放火したと噂したという。真偽のほどは分からないが、そこでネロは、こうした噂を打ち消すべくキリスト教徒に罪を着せて、迫害する挙に出る。恐らくネロのこうしたやり方に、側近だったセネカが強く苦言を呈して諌めたためだろう。65年にはそのセネカが自殺させられているのだ。

 あとは坂道を転げ落ちるように、皇帝ネロの治世は暗転していく。68年にタラコンネシス属州の総督ガルバらによる反乱が起こり、各地の属州総督がこれに同調。遂には元老院から、ネロは“国家の敵”とされてしまう。ここまできてはさすがのネロもなすすべなく、同年自ら命を絶ち、30年の生涯を閉じた。

(参考資料)寺山修司「さかさま世界史 怪物伝」

ヒトラー 政権掌握後「指導者原理」唱えて民主主義を排除し“暴走”

ヒトラー 政権掌握後「指導者原理」唱えて民主主義を排除し“暴走”

 「ナチのファシストで独裁者」アドルフ・ヒトラーは第二次世界大戦を引き起こし、ヨーロッパ全土を恐怖に陥れた「狂信的殺人鬼」とも称された。そんな巨悪なイメージとは別に、青年時代のヒトラーは純粋な芸術に取り組む小人物だったという。それが、どうして、どこで、数多くの“虐殺”を行っても動じない“独裁者”に変わったのか。

 アドルフ・ヒトラーは、ドイツとの国境近くのオーストリアの小さな町、ブラウナウで税関吏の子として生まれた。父アロイスは小学校しか出ていなかったが、税関上級事務官になった努力家だった。アドルフはアロイスの3番目の妻クララとの間に生まれた。名前のアドルフは「高貴な狼」という意味で、ヒトラーは後に偽名として「ヴォルフ」を名乗っている。認知した父の姓は「ヒドラー」だったが、「ヒトラー」と改姓。ヒトラーの生没年は1889~1945年。

 父アロイスは厳格で自分の教育方針に違反した行為をすると、情け容赦なく子供たちに鞭を振るった。少年時代のヒトラーは成績が悪く、2回の落第と転校を経験しており、リンツの実業学校の担任の所見では「非常な才能を持っているものの、直感に頼り努力が足りない」と評されている。歴史や美術など得意教科は熱心に取り組むが、数学、フランス語など苦手教科は徹底して怠ける性質だったという。

 ヒトラーは若くして両親を失い、ウィーンで画家になろうとして失敗し、同市の公営施設を常宿として絵を描いて売ったり、両親の遺産に頼ったりして生活した。その間に下層社会や大衆の心理について見聞、体験したことが、後に政治活動するうえで役立った。

 1913年、オーストリアで兵役につくことを嫌ってドイツのミュンヘンに逃れた。第一次世界大戦が始まるとドイツ軍に志願兵として入隊し、とくに伝令兵として功を立てて、一級鉄十字章を受けた。ドイツ革命(1918~19年)の後、ミュンヘンの軍隊内で軍人のための政治思想講習会に出席して、民族主義思想を固めた。

 ヒトラーは1919年、ドイツ労働者党(後の国家社会主義ドイツ労働者党、すなわちナチス)という国家主義と社会改良主義を結び付ける小党に入党した。そして、1921年に党首となった。1923年、ミュンヘン一揆を起こすが、失敗。それ以後、ワイマール共和制打倒・ベルサイユ条約打破・反ユダヤ主義を主張し、議会制民主主義の制度的枠組みの中で党勢を拡大していき1933年、首相に就任した。就任すると直ちに、ワイマール憲法に基づく緊急命令の発動や授権法の制定によって、権力基盤を固めた。そして翌年、大統領を兼ねて総統となった。

 政権掌握までの過程は民主的だった。しかし、政権掌握後に「指導者原理」を唱えて、民主主義を無責任な衆愚政治の元凶として退けたことが、その後の“暴走”を招いたわけだ。以後、ヒトラーは再軍備宣言(1935年)・ラインラント進駐(1936年)・スペイン内乱への介入(1936年)・ミュンヘン会談(1938年)と軍備を拡張する中で積極外交を展開した。そして1939年、ポーランド侵攻によって第二次世界大戦への勃発を招き、ヨーロッパを広範な戦禍に巻き込むとともに、ドイツを敗北に導いた。1944年には保守派がヒトラーの暗殺を含むクーデター計画を実行したが、失敗に終わった。ヒトラー自身はベルリン陥落寸前の1945年4月30日、ベルリンの首相官邸の地下壕で、前日、結婚式を挙げた17歳の花嫁、エヴァ・ブラウンと「心中」、ピストル自殺した。

 ヒトラーの思想は『わが闘争』の中に見い出される。アーリア人種が文化創造の主体であるという生物学的な人種理論を唱える一方で、「民主主義、議会主義、マルクス主義、拝金主義などがユダヤ人の世界支配の陰謀に基づく」という「反ユダヤ主義」を主張し、「民俗共同体」を人種的生存の核として位置付けた。

 秘密国家警察(ゲシュタポ)や強制収容所の存在が象徴するように、ヒトラー独裁の下では国民の自由は抑圧され、またユダヤ人が迫害された。だが、他方で失業問題の克服や社会的階層秩序の流動化、そしてなによりも外交上の成功によって、少なくとも1937~38年ごろまでのヒトラーが国民の相当程度の支持を得ていたことも見逃せない。

 

(参考資料)寺山修司「さかさま世界史 怪物伝」

 

十市皇女「壬申の乱」を戦った大海人皇子を父に大友皇子を夫に 

十市皇女「壬申の乱」を戦った大海人皇子を父に大友皇子を夫とした女性 

 古代、万葉の頃は数奇な運命に導かれるように薄幸の生涯を送った女性は様々いるが、十市皇女(とおちのひめみこ)ほど身を裂かれるような、悲劇的な選択を迫られた女性は極めて少ないだろう。彼女は、古代日本の最大の内乱「壬申の乱」(672年)を両軍の最高指揮官として戦った大海人皇子(おおあまのみこ)と大友皇子を、それぞれ父と夫に持った女性だった。父と夫が戦う事態はまさに異常としか言いようがない。

 十市皇女の動静はほとんど記録に残っておらず、まさに謎だらけだ。生年にもいくつかの説がある。653年(白雉4)や648年(大火4年)など確定しない。没年は678年(天武天皇7年)だ。天武天皇の第一皇女(母は額田王・ぬかだのおおきみ)であり、大友皇子(明治期に弘文天皇と遺贈された)の正妃。

 父の大海人皇子が、兄の天智天皇から大田皇女、鵜野讃良(うののさらら)皇女(後の持統天皇)の2人の皇女を娶ったことから、両者の関係を緊密にする意味も加わって、大海人皇子の方からは妻・額田王との間に生まれた皇女=十市皇女が天智天皇の長子、大友皇子の妻として迎えられた。このことが彼女にとって、冒頭に述べた通り後に大きな悲劇を生むことになった。

 既述のとおり、彼女の生涯は詳らかではない部分が極めて多く断定できないのだが、彼女の人生にとってぜひ記しておかなければならないのが、天武天皇の皇子(長男)、高市皇子(たけちのみこ)との悲恋に終わった恋だろう。高市皇子は天武天皇存命時は皇子の中では草壁皇子、大津皇子に次ぐNo.3の座にあったが、天武天皇が亡くなった後、大津皇子、そして草壁皇子が亡くなるとNo1に昇り詰め、690~696年は太政大臣を務め持統天皇政権を支えた有力な皇子だ。相手としては何の問題もない。したがって、政略結婚として大友皇子のもとに嫁ぐことがなければ、彼女はきっと高市皇子との恋を成就させたのではないか。

 それを裏付けるのが相手の高市皇子の動静だ。高市皇子は詳らかなところは分からないが、実は当時の皇族としてはかなり異例の年齢まで正妃を持たず、独身だったからだ。恐らく高市皇子は愛しい十市皇女を想い続け、妻を迎える気にならなかったのではないかとみられるからだ。まさに相思相愛だったのだ。

 そんな彼女だったからか、大友皇子の正妃としての境遇に心底馴染めない側面があったのか、父母への思慕が勝っていたのか、こんな説が残っている。『宇治拾遺物語』などでは、十市皇女が父・大海人皇子に夫・大友皇子の動静を通報していたことが記されている。大海人皇子にとって、迫りくる娘婿・大友皇子との雌雄を決する決戦「壬申の乱」に至る過程で敵方、近江大津京の情報は喉から手が出るほど欲しかったに違いない。その役割を彼女は主体的に担ったのかも知れない。

 彼女には、その死についても謎がある。詳しい経緯はわからないが、彼女は未亡人であったにもかかわらず、泊瀬倉梯宮(はつせくらはしのみや)の斎宮となることが決まる。通常は斎宮といえば未婚の女性が選ばれるのだが。そして678年(天武天皇7年)、まさに出立の当日、4月7日朝、なぜか彼女は急死してしまう。王権をめぐって自分の父と夫が戦うという、非情の運命を背負わされた女性の悲しすぎるエンディングだ。

 『日本書紀』は「十市皇女、卒然に病発して宮中に薨せぬ」と記されている。7日後の4月14日、亡骸(なきがら)は大和の赤穂の地に葬られた。彼女はまだ30歳前後だ。この不審な急死に対し、自殺説、暗殺説もある。

 1981年、「比売塚(ひめづか)」という古墳の上に建てられた比売(ひめ)神社に、彼女は祀られている。この比売神社は現在、奈良市高畑町の一角にある。

(参考資料)黒岩重吾「茜に燃ゆ」、豊田有恒「大友皇子東下り」

明正天皇 幕府の圧力で退位した父帝の後、7歳で即位859年ぶり 女帝

明正天皇 幕府の圧力で退位した父帝の後、7歳で即位した859年ぶりの女帝

 第百九代・明正(めいしょう)天皇は、徳川二代将軍秀忠の娘、東福門院和子(まさこ)を母に持つ、第百八代後水尾(ごみずのお)天皇の第二皇女で、奈良時代の第四十八代称徳(しょうとく)天皇以来、実に859年ぶりの女帝として即位した。この徳川氏を外戚とする唯一の天皇の誕生を機に、『禁中並公家諸法度』に基づく江戸幕府の朝廷に対する介入が本格化したのだ。ただ、明正天皇の治世中は、将軍家の度重なる強い圧力を嫌って突然退位した前天皇、父の後水尾による院政が敷かれ、明正天皇が朝廷において実権を持つことは何ひとつなかったという。彼女自身、幕府と朝廷=母の実家と父帝の板ばさみとなり、ある意味で悲劇のヒロインだったともいえる。

 明正天皇の幼名は女一宮(おんないちのみや)、諱(いみな)は興子(おきこ)。明正天皇の在位は1629(寛永6)~1643年(寛永20年)、生没年は1624(元和9)~1696年(元禄9年)。奈良時代以来の女帝、明正天皇の誕生は、今日、後水尾天皇による「俄の御譲位」事件として記録されている。父の後水尾天皇から突然の内親王宣下と譲位を受け、興子内親王として践祚(せんそ)。わずか数え年7歳のときのことだ。

 幕府による後水尾天皇への圧力として象徴的だったのが、無位無官の女性=春日局の参内だった。春日局は本名・山崎福、明智光秀の重臣、斎藤利三の娘、応募して徳川三代将軍家光の乳母となった気丈な女性だ。お福は将軍の代参として伊勢両宮に参詣の途次、京都に立ち寄り、参内したいと申し出た。しかし、無位無官の女性が参内するなどいうのは、前代未聞のことだ。そのため、公卿の誰かの子として、禁裏に招かれる体裁をとるということになった。だが、お福は老女なので、養家となるべき相応の公卿が見当たらない。そこで、やむなくとられた手段は、伝奏・三条西実条の姉妹分という扱いだった。ちなみに、春日局とは室町時代の将軍家の乳人(めのと)の称で、このときお福はそれに倣って、「春日局」の称号を許されたのだ。

 こうした体裁を整えたうえでお福は予定通り参内、禁中御学問所で天皇と対面し、西の階(きざはし)近くに召されて勾当内侍(こうとうのないし、長橋局)の酌で天盃(てんぱい)を受けた。『大内日記』によると、このときお福は、後水尾天皇の中宮和子(明正天皇の母)のいる中宮御所で、京都所司代・板倉重宗と落ち合い、そこから伝奏・実条の案内で参内したらしい。いずれにしても、お福は上首尾に天盃を賜り、面目を施したのだ。しかし、地下(じげ、無位無官)の女性が幕府の威光を背に強引に参内したというので、公卿らの憤懣はうっ積した。

 後水尾天皇の退位のきっかけとなった事件として指摘されるのが紫衣(しえ)事件だ。これは幕府の朝廷に対する圧迫と統制を示す朝廷・幕府間の対立事件で、江戸時代初期の両者の最大の不和確執だ。事の始まりはこうだ。幕府は1613年(慶長18年)、「勅許紫衣並 山城大徳寺 妙心寺等諸寺入院の法度」、1615年(元和元年)に「禁中並公家諸法度」を定めて、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じた。しかし、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。

 これを知った徳川三代将軍家光は1627年(寛永4年)、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして、多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代・板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じたのだ。この事件をきっかけに、こうした介入に承服できない後水尾天皇は、退位の決意を固めたといわれる。

 幕府には無断で、突然ではあったが、譲位を迫る将軍家の強引な仕儀に屈する形で、後水尾天皇は後継に幼女を据え、退位した。しかし、このことは後を託された明正天皇にとって、きわめて悲しい運命を科されたことをも意味した。それは、古代より天皇となった女性は即位後、終生独身を通さなければならない-という不文律があったからだ。

 この不文律は元来、皇位継承の際の混乱を避けることが主要な意図だった。だが、後水尾天皇はこの不文律を利用し、徳川将軍家に対して反撃に出たのだ。皇室から徳川家の血を絶やし、後世までその累が及ばぬようにするという意図をもって、娘に白羽の矢を立て、明正天皇を即位させたとの見方があるのだ。後水尾天皇は将軍家の、天皇家に対する無礼な振る舞いに立腹、一時的な感情に支配されて退位したように見せながら、実際にはしたたかに計算したうえで明正天皇を誕生させたともいえるのだ。幕府の意向を十分汲みながら、皇室から徳川の血を排除するという、一石二鳥の妙手だったわけだ。事実、後水尾天皇は明正天皇への譲位後も朝廷内においては院政を敷き、引き続き実権は握っていたのだから。院政は本来、朝廷の法体系の枠外のしくみで、「禁中並公家諸法度」ではそれを統制できなかったのだ。

 明正天皇は1643年、21歳で異母弟の後光明(ごこうみょう)天皇に譲位。以後54年間、女性の上皇として宮中にあった。崩御後、古代の女帝、第四十三代・元明(げんめい)、第四十四代・元正(げんしょう)両天皇の一字ずつを取って明正院と号した。

(参考資料)今谷 明「武家と天皇- 王権をめぐる相剋」、笠原英彦「歴

      代天皇総覧」、北山茂夫「女帝」

藤原俊成女 後鳥羽院歌壇で活躍した新古今時代を代表する女流歌人

藤原俊成女 後鳥羽院歌壇で活躍した新古今時代を代表する女流歌人

 藤原俊成女(ふじわらとしなりのむすめ)は、俊成(通称しゅんぜい)の娘ではなく、養女としていたが、実は孫だ。彼女の結婚生活は長続きせず、妻としての幸せには恵まれなかったが、30歳を過ぎてから後鳥羽院に出仕。後鳥羽院歌壇における俊成女の活躍は目覚しく、新古今時代を代表する女流歌人となった。女流歌人の『新古今和歌集』への入集歌は、式子内親王(しきしないしんのう)に次いで第二位だ。

 藤原俊成女の生没年は不詳。1171年(承安元年)ごろに生まれ、1251年(建長3年)以降に亡くなったと推測される。本名は不詳。実父は藤原盛頼。実母は俊成の娘、八条院三条。1177年(治承元年)彼女が7歳のころ、父は「鹿ケ谷の変」に連座して官職を解かれ、八条院三条と離婚。以後、彼女は祖父・俊成のもとに預けられたらしい。そして、俊成の養女となった。後に歌壇で「俊成卿女」などと称された。現実に『新古今和歌集』などには「皇太后宮大夫俊成女」として収められている。

 少女時代を祖父・俊成のもとで過ごし、20歳のころ、時の政界の実力者、土御門内大臣・源通親(みちちか)の次男、大納言・源通具(みちとも)と結婚した。1190年(建久元年)ごろのことだ。通具との結婚生活は、一男一女をもうけながらも長続きしなかった。1199年(正治元年)夫の通具は、土御門天皇の乳母、従三位典侍(ないしのすけ)按察局(あぜちのつぼね)・藤原信子(しんし)と結婚した。按察局は、通親の養女となって後鳥羽院の後宮に上った宰相君源在子(さいしょうのきみみなもとのざいし=承明門院)の異母妹で、通親を柱とする当時の権勢の中心にいた女房だ。

 夫の通具は父の名代として『新古今和歌集』の5人の撰者の筆頭だったが、藤原定家などは『明月記』の中でしばしば撰者としての見識のなさを記している。通具は、係累を見極め、出世のために何度も結婚・離婚を繰り返した父・通親と同様、出世欲が人一倍強く、人格的に俊成一族とは相容れなかったのだ

 そんな、肌合いの違う夫との以後の結婚生活は、形式的には夫婦関係を解消することはなかったが、俊成女にとって決して幸せなものではなかったようだ。そして、二人の関係は夫の夜離れにつれ、自然離別という状態になっていった。翌年の1200年(正治2年)には母の八条院三条が亡くなり、彼女はいっそう孤独な境涯になった。

 失意の俊成女が、輝きを取り戻すのは30歳を過ぎて、後鳥羽院の女房として出仕してからのことだ。幼い頃から俊成のもとで養育され、磨かれただけに、後鳥羽院歌壇で活躍し始めるのに時間はかからなかった。史料によると、後鳥羽院主催の1201年(建仁元年)八月十五日撰歌合(うたあわせ)が、「俊成卿女」の名の初見で、彼女のいわば「歌合デビュー」だが、その後、後鳥羽院歌壇の多くの歌合に参加している。その歌才ゆえに「俊成卿女」「俊成女」の名誉ある称を得たとみられる。

 「風かよふ寝ざめの袖の花の香に かをるまくらの春の夜の夢」

 歌意は、春の夜明け方、ふと目覚めると、風がほのかに枕元にかよっている。その風は花の香を運んでくるばかりか、はらはらと散る花をさえ袖の上に運んでくる。その花の香に包まれて、果たして目覚めているのか、それとも春夜の夢の中にまだ漂っているのか分からないような、心地よさの中で、すべてが夢の中のようなひとときだ。

 『新古今和歌集』入集歌をみると、祖父・俊成、叔父・定家らの影響はもとより、『伊勢物語』『源氏物語』『狭衣(さごろも)物語』などの古典を縦横に摂取し、技巧的、構成的な作風を展開する最も新古今的な作家の一人といえる。

 「下燃えに思ひ消えなむけぶりだに 跡なき雲のはてぞかなしき」

 歌意は、片思いの苦しさの中で私はこがれ死にすることでしょう。せめて私を荼毘に付す煙なりとも、あの方に知ってもらいたいものだが、その煙さえ空に立ちのぼっては誰のものというしるしもない。悲しいことです。この歌も『狭衣物語』に収められている歌がベースになっている。

 晩年の住まいにちなみ「越部禅尼(こしべぜんに)」「嵯峨禅尼」などとも呼ばれた。家集に『俊成卿女集』がある。俊成女はいま、祖父・俊成と墓を並べ、京都の東福寺南明院に眠っている。

(参考資料)大岡 信「古今集・新古今集」

只野真葛 封建社会の束縛・苦難に、力強く生きた女流文学者

只野真葛 封建社会の束縛・苦難に遭いながら、力強く生きた女流文学者

 只野真葛(ただのまくず)は、『赤蝦夷風説考』を幕府に上申した工藤平助の娘、あや子の後の名だ。真葛は、天明から文化・文政の江戸時代中期~後期、家の没落や結婚の失敗などの幾多の苦難を乗り越え、自由で鮮やかな個性に輝く著作を残した。封建社会の束縛に取り囲まれながらも、自分を見失うことなく、一人の人間として力強く生きた女流文学者で国学者だった。只野真葛の生没年は1763(宝暦13)~1825年(文政8年)

 江戸の築地で生まれた只野真葛(当時は工藤あや子)の父は工藤平助。江戸ではかなり名の知れた医者だ。養父の工藤丈庵(くどうじょうあん)以来、伊達家に仕えているが、父は藩侯・伊達重村の命令で還俗し、それまでの周庵(しゅうあん)という医者らしい名前を改めて、平助を名乗るようになっていた。母は同じく伊達藩の桑原隆朝の長女、遊(ゆう)。

 あや子の別号は綾女。工藤綾子または、単にあや(綾)、また「工藤真葛」「真葛子」「真葛の媼(おうな)」とも称された。只野は婚家の姓。あや子の上に生後まもなく死去した子がいたが、実質的には弟2人、妹4人を合わせた7人の長女として育った。「真葛」の筆名は、両親が7人の子供たちを秋の七草の名に因んで呼称していたことに由来し、40歳のころから自ら用いるようになった。

 あや子は父の影響で蘭学的知見にも通じ、ときに文明評論家や女性思想家と評されるときもある。彼女は読本の大家として知られる曲亭馬琴とも親交があった。馬琴に批評を頼んだ経世論『独考(ひとりかんがへ)』、俗語体を駆使して往時を生き生きと語った随筆『むかしばなし』、生まれ育った江戸を離れて仙台に嫁してからの生活を綴った『みちのく日記』など多数の著作がある。

 あや子は幼女の時代から才弾けていて、筆が持てるようになった3歳の頃、すぐ「いろは」が書けるようになったし、『百人一首』も瞬く間に憶えてしまった。父は「あや子はもの憶えがいい」と喜んで、すぐ下の弟とともに、漢籍の素読を授けた。だが、そのうちにあや子に漢文の素読をさせることをやめた。あや子が「どうして?」と訊ねると、父は困ったような微笑を浮かべて「女が四角い文字を憶えると不幸せになるというからな。わしはあや子を不幸せにしたくないのさ」といった。そんな時代だった。

 女はもの知りであってはならない。女は男より賢くなってはいけない。つまり、男女は同等であってはならない。この考え方はあや子の時代から約200年経った第二次大戦まで続いた。18世紀半ばすぎに生きていたあや子は、この封建的規制を不自由なこと、理屈に合わないことと感じた。普通、この時代の女性のほとんどがこの規制の前に、黙って引き下がってしまうところだ。そのことがあや子の個性を裏付けるものといえるかも知れない。

 江戸時代の女性は、様々な社会的制約に取り囲まれていた。あや子=真葛はそれを痛いほど体験しながら、独自の道を開いていった。そして、いつか、封建的な制約を超えた、ユニークな思考を展開させていったのだ。1778年(安永7年)、あや子は伊達藩上屋敷へ奉公に出た。七代藩主・伊達重村夫人、近衛年子に仕えることになった。16歳のときのことだ。1783年(天明3年)、選ばれて重村の息女・詮子(あきこ)の嫁ぎ先、彦根藩の井伊家上屋敷に移ることになった。この井伊直富と伊達詮子の縁談を取り持ったのは、当時の権力者、田沼意次だったという。

 これに前後して父・平助は1781年(天明元年)、『赤蝦夷風説考』下巻を、そして1783年(天明3年)には同上巻を含めすべて完成させた。ただ、1786年(天明6年)工藤家にとって極めて不運なことが起こった。徳川十代将軍・家治が亡くなり、これをきっかけに平助の蝦夷地開発計画に耳を傾けてきた開明派の老中首座・田沼意次が失脚。代わって保守派の松平定信が老中首座に就いたことで、平助の出世の見込みは全くなくなったのだ。

 また、あや子自身も1788年(天明8年)、夫の井伊直富が28歳の若さで病死した詮子のもとを辞し、実家(工藤家)へ戻った。そしてこれ以後、あや子はやむなく工藤家の支柱たらざるを得なくなった。そんなあや子に肉親の死、意に沿わぬ結婚の失敗など、様々な可能性が扉を閉ざしていった。しかし、彼女は決して「人間とはなにか、そして生きるとは?」という問いかけを忘れることはなかった。

 真葛は、二度目に嫁いだ伊達藩士・只野行義のもとで、ようやく「書くこと」によって己れの居場所を見い出すことになり、それは夫の死後も変わらなかった。女流文学者・只野真葛の誕生だった。

(参考資料)永井路子「葛の葉抄(くずのはしょう)」、大石慎三郎「田沼意次の時代」、佐藤雅美「主殿の税 田沼意次の経済改革」

大伴坂上郎女 大伴氏を支え、『万葉集』に84首所蔵の女流最多の歌人

大伴坂上郎女 大伴氏を支え、『万葉集』に84首所蔵の女流最多の歌人

 大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)は、穂積皇子、藤原麻呂、大伴宿奈麻呂(すくなまろ)らに嫁ぎ、後年は氏族の巫女的存在として大伴氏を支えた。額田王以後最大の女流歌人で、『万葉集』に長短歌84首が収められている。これは女性では最多で、全体でも大伴家持、柿本人麻呂に次いで第三位だ。大伴坂上郎女の生没年は不詳。

 大伴坂上郎女は、大納言・大伴安麻呂と石川内命婦の娘。大伴稲公の姉で、大伴旅人の異母妹。大伴家持の叔母。坂上郎女の通称は、坂上の里(現在の奈良市法蓮町北町)に住んだためという。7世後半に生まれ、750年(天平勝宝2年)ごろまで生きた。藤原時代の最後から奈良朝初期に歌を残し、『万葉集』に84首が収められている女流最多の歌人。これに次ぐのが笠郎女の29首だから、その差は歴然としている。

    晩年の穂積皇子に愛され、次いで藤原不比等の四男で京家の祖・藤原麻呂の妻となった。その死別後、異母兄・大伴宿奈麻呂に嫁して坂上大嬢(おおいらつめ)、二嬢(おとのいらつめ)を産んだ。724年(神亀元年)~728年(神亀4年)ごろ宿奈麻呂が亡くなった後、異母兄の旅人を追って大宰府に下向した。帰京後は佐保邸にとどまり、一家の刀自(とじ=家政をつかさどる婦人の称)として、また氏族の巫女的存在として大伴氏を支えた。旅人が亡くなった後は、甥の家持を後見し、家持の歌人としての出発に多大な影響を及ぼすとともに、娘の大嬢をその妻として嫁がせた。

 大伴坂上郎女の歌人としての評価は高い。その題材も相聞歌、祭神歌、挽歌など多岐にわたっている。とりわけ、恋の歌において、即興的・機知的な才を遺憾なく発揮した。

 「夏の野の繁みに咲ける姫百合の 知られぬ恋は苦しかりけり」

 歌意は、夏の野の繁みにひっそりと咲いている姫百合のように人に知られない恋は苦しいものだなあ。

 「千鳥鳴く佐保の川瀬のさざれ波 やむ時もなし我が恋ふらくは」

 歌意は、佐保川の川面を岩ばしるながれのように、私の恋心もまた激しく、とどまることはない。

 「山菅(やますげ)の実ならぬことを我(わ)に寄そり 言われし君はたれとか寝(ぬ)らむ」

 歌意は、山菅が実を結ばないことを、私との仲になぞらえて世間から噂されたあなたは、いまごろどなたと一緒に寝ているのでしょうか。

 「黒髪に白髪(しろかみ)交じり老ゆるまで かかる恋にはいまだ逢はなくに」

 歌意は、黒髪に白髪が混じって、これほど年取るまで、こんな恋にはまだ出逢ったことはありません。

 「恋ひ恋ひて逢える時だに愛(うつく)しき 言(こと)尽くしてよ長くと思はば」

 歌意は、恋して恋して、やっと逢えたときくらい、情け深い言葉をありったけ言い尽くしてください。これからも二人の仲を長く続けようと思うなら。

 「ぬばたまの夜霧のたちておぼほしく 照れる月夜の見れば悲しさ」

 歌意は、夜霧が立ち込めて、ぼんやり照っている月を見ると悲しいことだ。 

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」